キドコロネ

小説 映画 マンガ アニメ など、つれづれなるままに。

長い廊下がある家

  推理小説は炭酸飲料と同じ位置にいる。私は小説も映画も、読み返したりすることはほとんどない。特に推理ものの作品は読み終えてスッキリするとまあ二度と開かない。

 炭酸を飲みたくなるときが度々あって、喉でシュワシュワ弾ける炭酸の感覚を味わいたいから、大抵一気に飲み干してしまう(鼻と喉の奥がツンとして、涙が出る)。推理小説も伏線をくるくる回収していくラストスパートは霧払いのようで心地いいから、寝ずに一気読みすることが多い(ああ読んだって気になる)。

 特別講師としてこの1年間、前期後期に渡って教鞭をふるって下さったK先生は、来年以降いらっしゃられないそうだ。楽しい講義だったのでとても寂しい。大好きなK先生との共通点なんて講師と学生、文学を学ぼうとする姿勢、くらいしかないと思っていたのだが、最後の最後で有栖川有栖さんの作品を愛読している、というのを知れた。嬉しい発見だ。 

 そこで、有栖川有栖さんの作品について書こうと思う。 

長い廊下がある家

長い廊下がある家

 

 初めての有栖川作品だ。図書館で本を選ぶとき、特に目的を持たない。本の背を流し見ながら歩いて、「なにか」に惹かれたら手に取ってみる。

有栖川有栖

 どうしていままで気付かなかったのだろうと不思議になる、逆さ言葉のようなペンネームだ。赤のデジタルコラージュを包丁型に切り取った表紙にも「オサレだな」と思い、借りることにした。

 内容は推理小説の短編集だった。元から殺人事件モノは好きな方だったし、受験勉強の時期かなにかで気晴らしをしたいときだったから、短編集は気軽に楽しめたような記憶がある。トリックの技法が主役になりやすい推理モノの魅力だと思うのだが、人間関係や感情描写の低温さが、つまり淡々とした文体が、するすると読めて疲れなかった。

 この作品を読んでから、もっとこの人の小説を読んでみたいと思った。私は元々、自己主張の激しい文章が好きで、新書や資料本を読みたくなるときがある。『長い廊下がある家』にも同じものを感じた。

 主人公が著者と同じ名前の有栖川有栖で、しかも小説家で出身地も同じという設定であり、有栖川の一人称視点で描かれるために事件の全貌よりも彼の思考の方が色濃く出てくる。彼の一方的な人間評価や、事件の捜査で遠出したのに旅行気分になったり、小説への思入れや技法を解説したりと、心のなかでごちゃごちゃ考えているところに、人間臭さを感じた。

 著者は有栖川有栖を自身と同一化して描いているのでは? とつい考えてしまう。そうだったら嬉しい。作品中の有栖はとても楽しそうだ。