キドコロネ

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GOSICK -ゴシック-

「かわいい女の子」であり、「名探偵」である構成材料。

 

 

GOSICK』は「西欧舞台でかわいい女の子が活躍するライトノベルが読みたい!」
という私の気持ちにドンと応える。

GOSICK』の「かわいい女の子」は表紙を見てもわかる通り、
金髪碧眼の少女・ヴィクトリカである。
悠然とパイプをふかしている姿から、彼女がただの幼女でないことが見て取れ、
あらすじからもヴィクトリカがこの小説における「探偵」であること、
そしてかなり頭脳明晰な変わり者であることもうかがえる。

しかし、とりわけこの設定が目新しいわけではない。
ミステリの探偵役はだいたいこんな性格な者が多い。
例を挙げると流行の『SHERLOCK』のシャーロック(原作もふくめ)も
まさにこんなキャラクターである。生き字引のように解説してみせるところもそっくりだ。
ヴィクトリカの推理力である「混沌の再構成」や「湧き出る知恵の泉」と、
シャーロックの「精神の宮殿」も似ている。「マインドパレス」という記憶術が実際にあるらしい。
往々にして探偵は、鋭い観察眼と膨大な知識を持った「天才」が多い。
著者の編み上げたトリックを解説しなくちゃならないわけだから、そうなるのは当然のことだ。

「探偵」の記号にぴったりハマるヴィクトリカだが、
このままでは外見だけの「かわいい女の子」になってしまう。
マンガやアニメならそれでも通じるかもしれないが、小説はビジュアライズに弱い。
しかもヴィクトリカの口調は堅苦しく、女の子らしい言葉づかいではない。
その上「老婆のような声」ときた。小説の音声化が苦手な私には上手く脳内再生できなかったが。

ヴィクトリカのかわいさを引き出しているのは「設定」ではなく、「助手」の一弥だ。
この少年がいなければヴィクトリカに事件はもたらされないし、
彼女のキャラクターを把握することもできない。
読者は一弥の視点でヴィクトリカと接することになる。

一弥は推理場面においてヴィクトリカには遠く及ばない。
しかし日常風景では一弥がヴィクトリカをおんぶに抱っこで世話している。
ここで「超人的で傲慢な探偵」と「だらしなくて常識にかけた少女」という
2つのヴィクトリカを見ることができる。つまりギャップである。
このギャップが肝心なのである。
読んでいるこっちまで一弥といっしょに
「もう、ヴィクトリカったら!」みたいな心境にさせ、
彼女に振り回される一弥に同情できる「庶民臭さ」が重要なのである。
特異なヴィクトリカを一般人の一弥の目から描くことで、
「かわいい女の子」+「名探偵」=ヴィクトリカが実現するのである。
彼らのやり取りは微笑ましく軽快で、「人の魅力」を引き出すのは「他者との関わり合い」であることを改めて感じさせられた作品だ。

もうひとつ、『GOSICK』の魅力について書き留める。
女の子であるヴィクトリカは男性的に、
男の子である一弥は女性的に描かれていることだ。
ヒロイン性からヴィクトリカを引き離すことで、
なよなよした女の子臭さを排除し、
女性読者にも「かわいい女の子」と受け入れやすくさせている。
「かわいい」「かっこいい」などは外的要素であり、
内面から描くのは極めて危険である。