キドコロネ

小説 映画 マンガ アニメ など、つれづれなるままに。

ルビー・スパークス

 

  

あらすじ

 ルビーは小説に書いていた女の子だ。出身、職業、名前、性格、すべて作家のカルヴィンが創造した、理想の女の子。現実に現れたルビーはカルヴィンのまさに描いた通りに魅力的で、しかも小説に設定を書き足すと現実のルビーに反映される。つまり、意のままにルビーを操れるってことだが、カルヴィンは本物の女の子としてルビーを愛したかったから、小説の続きを書くことはやめた。

 ルビーは日ごとに輝きを増して生き生きとしていく反面、小説の設定を破綻させ、カルヴィンの創造にはなかった一面が増えていく。ついに、距離を置かれるまでになってしまった。現実の恋人同士によくある、倦怠期ってやつだ。こんなはずじゃない、ルビーはカルヴィンをずっと愛する女の子なのだ……カルヴィンは自分の手から離れていくルビーを繋ぎ止めるために、小説を書き足す。それはルビーの人格を壊すことに他ならなかった。 

おきにいりのシーン

☆タイプライターを打つシーン。音が心地よい。

☆カルヴィンとルビーが自宅のプールで泳ぐ。水色の中で絡み合うふたりの動き、ルビーの真っ赤なワンピースが美しい。

☆ルビーが小説の女の子だと兄にわからせるシーン。

☆ルビー、幼児化。

☆「文字ではなく彼女がそのまま降ってきたのです」のセリフ。 

 

感想など ネタバレあり

 想像上の恋人が現実に現れる。既視感を覚える設定で、どこかで類似作品に出会ったことがあるな、と思いながら鑑賞。他人を愛するのに自分の価値観・理想は重い足かせである……。誰もが持つ理想像は、しょせん理想でしかない。

 理想を現実(小説、絵など)に書き出すだけでも、頭の中にあったものとはまるで別物になる。よく小説では「キャラが勝手に動き出す」といい、これは書き手からキャラクターが独立し、一人の人間として人格がきっちり形成されているから起こる現象であり、ご都合主義の物語を回避させる重要な要素でもある、といわれる。

 ルビーが現実に現れたのは、「過去を修正できない人生」の特徴と、カルヴィンが執筆に使っていたタイプライターの「修正が利かない道具」であることが関わっている。ルビーの人生はタイプライターの刻み付けるひとつひとつの文字そのものなのだ。ラストシーンではそれがよく現れている。

 ただの恋愛ファンタジーに収まらず、ルビーの視点からカルヴィンを描いたことでサイコ・ホラーのような緊迫感あるラストスパートを味わえた。初めは心地よかったタイプ音が狂気を誘うものへ変貌していく……。中盤でのコメディ要素ふくめたストーリーの緩急、清潔感のある舞台セットとカメラワークと、予想以上にのめり込んで観ることが出来た。やはりアメリカは楽しめる映画を作るのが上手いなあ。